選択する、と言うこと

認知症で施設にお世話になっている母が、この夏、あまり食事を摂らなくなってしまい、急きょ、入院となった。

入院した直後から、さらに状態が悪くなり(なんでだ?)、とうとう「胃ろう」の選択を迫られた。延命治療はしないと決めていたが、まだ意識のある母がこのまま病院で、点滴だけでただ衰弱していくのはあまりにも悲しい。「胃ろう」だと今までの施設も受け入れてくれるとのこと。病院では、点滴を外さないようにミトンを24時間装着され、本人も外そう外そうとして可愛そ過ぎる。

こういう選択は本当に難しい。もし、ノンデュアリティーを知ってなければ、非常に悩み、選択する事にストレスを感じていただろう。選択結果は、私の意図とは関係なく決まっているとしたら、、、今回、私がどのように選択していくのか、客観的に観察をしてみた。まずケアマネさんや、介護経験のある友人、親戚などに聞いてみる。やはり、流れは出来ていく。「胃ろう」と言う選択になって行く。何を選択しても間違いはない、と言う信頼だ。実は選択する人など誰もいない、全てはただ起こる。

弱わってしまった母をみるのは涙が出る。しかし、これも避けることの出来ない現実なのだ。